四方山自転車記。

自転車でヒルクライムは昼までに。ときどき山登り。~気が向いたら気の向くまま~サイクリングの記録。

今週のお題「私のお母さん」背のたかい母。

お題を見て書いてみた。
投稿するかどうか考えていたが、どっかに残さないとそのまま忘れてしまいそう。
だから投稿することにした。

背のたかい母。

かれこれ、四半世紀になる。
“世界の中心で愛を叫ぶ“の少女とおなじ病気で、母は他界した。あの話と同時期の1987年の秋だった。セカチュウの頃の時代に、あの病気は不治の病だった。いまはどうかよく知らない。

 当時中学生になったばかりの自分には、亡くなるまで母が死ぬ病気になっているということを、父からは知らされずにいた。だから、そのうちまた、それまでと変わらない日常が帰ってくると思っていた。
 
 発病から亡くなるまで、約10カ月だった。セカチュウで観た病室の風景そのままの治療状況だった。父は毎日病室に通っていた。母は無菌病室に入り、抗がん剤で髪の毛はなくなり・・、体力が回復したときに一時退院したり・・、それでも病気がなおると信じているようだった。セカチュウの少女と同じように。

 中学生になったばかりの自分は成長期のちょっと前だった。自分はただの子供だった。何をするにも、母親にどうすればいいかを尋ねるような、頼りないただのぼくちゃんだった。なにをするにも背のたかい母親を見上げながら。
 自分の背がぐんと伸びはじめたころに、母親は普段の生活からいなくなり、そして他界した。
だから、自分には母親の背を追い越したという経験がない。実際には10cm以上、自分の方が身長が高くなったのに。

イメージする母親は、いつでも自分よりも背がたかい。
そしてこれからもきっと、背がたかいまま。


いま自分には自分で選んだ家族がいる。母が他界した時、父は39歳だった。そしていま自分が39歳になっている。
この歳で未亡人となるなど想像に耐えがたいし、想像したくもない。
そしてもう何年かすると、母親が亡くなった年齢を迎える。成人していない子供を残して先立っていく気持ちは、親となった自分にも何となくわかるようになってきた。できればそんな思いはしたくない。あと4,5年で家族に何をしてあげられるだろう。とか考えるようになった。
実際は、特別なにができるわけでもない。何もできなくても、ただ、健康で明るく生きているだけでもいいのかもしれない。

そうだ、優しくしてあげよう。


大人になるまえに、家族がいなくなるさみしさを経験した。
大人になって、家族がみんないなくなるという恐怖を感じるようになった。
そして、父も他界してしまった。
だからそして自分で家族をもつことにした。
たぶんこれが母や父からまなんだことだとおもう。


背のたかい母へ
先日70回目の誕生日でしたね。
お料理の上手だったおかあさん、ありがとう。
いつも明るいおかあさん、ありがとう。
僕を愛してくれておかあさん、ありがとう。

そして、僕の人生をくれた、おかあさん、おとうさん、ありがとう。
あなたたちのように、優しい人になりたい。

”ありがとう”タイプして涙がでそうになった。